「先憂後楽」という言葉がある。范仲淹という人の書いた『岳陽楼記』に「天下の憂(うれい)に先んじて憂い、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」という言葉があり、これを縮めて「先憂後楽」という。
君子は、天下の人々が物事について憂える前にその物事について憂い、天下の人々が楽しんでいる時に楽しまずに自分はそれを見届けた後に楽しむべきだということから「常に天下の平安を心がけていること」の意味で使われる。
君子は人々が憂える前にその憂いの原因を取り去ってやり、人々が楽しんでいる時に一緒になって楽しむと大切なことを見落とすかもしれないので、その楽しみの中に問題がないことを確認してから自分は楽しむべきだ、という自己犠牲的格言である。
ところが今日付けの朝日新聞別紙「Be(青)」では「辛いことを先に済ませて、楽しいことは後で」という意味で使われていた。
この誤用に驚きインターネットで検索したところ、同様の誤用の多さに愕然とした。
中には『「先憂後楽」もしくは「先楽後憂」、それが問題である。』として「先に辛いことを済ませるか、先に楽しんでおくか」などと用いられているから嘆かわしい。
「先」「後」というのは単純に「順番」としての意味ではなく、常に「他人と比べて」という要素が含まれる。前述の誤用はあくまで自分の事だけなので、この場合は不適切である。
蟻とキリギリスの話を「先憂後楽の教訓」と紹介しているサイトもあったが、「先憂後楽」はあるべき君子(人間)像であり、「教訓」とするのは不適切であろう。(例えば「誠実であるという教訓」という言い回しは意味不明である)
自分の結婚式で「好きな言葉」としてこの「天下の憂(うれい)に先んじて憂い、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」を挙げたのだが、あの時の反応から鑑みるにもう少し有名な言葉を挙げるべきだったと後悔することしきりである。
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