2008年10月アーカイブ

 そうだよなぁ、というのが第一印象。

価格と客層の関係。高いものを選ぶ富裕層の考え方 | Web担当者Forum」に興味深い記事があった。

客層は支払う金額に現れる

さらに説明を求めると、Bの性能が悪く買い直すことになればさらに5万円を支払うことになり時間も浪費するからといいます。つまり「性能ロス(損失)」から発生する「時間ロス」も避けるための合理性から高い商品を選ぶのです。価格はものさしの1つに過ぎず、選択理由のすべてではないということです。

安さに命を懸ける底値買いマニアと、質にお金を払う富裕層、どちらと取引を望むでしょうか。私は商品やサービス内容で判断し、さらに高くても買ってくれる後者を選びます。

価格と客層の関係。高いものを選ぶ富裕層の考え方 | Web担当者Forum


 詳しい内容は元記事を読んでもらうとして、個人事業主としてやっているとこの辺は本当にそう思う。

 「客を選り好みしてやっていけるのか」というのは独立した人が必ずと言って良いほど直面する問題だと思うし、選り好みせず「他よりも自分に発注して」と思えば思うほど「低価格・短納期」を売りにする傾向があると思う。(他にも「責任がもてないから安めに」と考える人もいるようだが、これはプロの姿勢ではないと思う)

 が、これには大きな落とし穴が2つある。

 「物語の薄っぺらさと議論 - プログラマーの脳みそ」を読んで、どうしてあれだけライトノベルと呼ばれる作品が好きだった私が、昨今のライトノベルと呼ばれる作品が好みでなくなったのかが分かった気がした。

フィクションを見てフィクションを描くな

対して、薄っぺらいファンタジーというのも沢山あって、都合よく世界を作れてしまうから、リアリティがない。リアリティのない世界で友人が死んでも、そこに「友人が死んだ」というリアリティある悲しみを描けない。死にました、あっそう、みたいな軽い世界である。

潤オ中略潤オ

リアルを観察して、フィクションを組み立てることが大事。物語になった時点でリアルの世界の情報は随分と削ぎ落される。フィクションを観察しただけなのに理解したつもりになってフィクションを組み立てると劣化した世界しか作れない。


 ああもう、言いたい事はきっとこれだったのだと思う。

 もちろん自分が年を取ったから「何も知らない青臭さ」に辟易してしまうというのも理由の1つではあると思うのだが、それにしても「フィクション」を書くことは実は「ノンフィクション」を書くよりも大変な事が多々ある、という事を分かっていない(ように見える)書き手が多いように思う。

 フィクションは「何でもあり」ではない。
 知り合いのミステリーを主に書くアマチュア作家さんが、本やアニメの感想で「偶然に必然がない」とよく言っているのだが、よく分かる気がする。その偶然を納得させるだけの何かがないと、「それは偶然だったのだよ」というだけの安易な理由では読者は納得しないのだ。
 フィクションはそもそもが何でもありの世界なのだから、その中でまで「偶然」と言われてしまったらただでさえ感じづらい「現実感」がさらに感じづらくなってしまう。

 大量生産され、大量消費されるだけの物語で満足しているのであれば、それもまた良いだろう。だが、それは「プロの物書き」ではないと思うのだ。
 プロは自分の作品に誇りを持ち、他のどの作品よりも優れた作品を生み出そうとし、しかも主観ではなく客観的にもそう認められるように(売り上げ部数がそれを示すだろう)努力しなければならないと思う。

 例えば夏目漱石とだって張り合ってしかるべきだ。
 売り上げ部数はもちろん、「20年後には俺の作品の方が教科書や入試問題に取り上げられるようになっている」くらいの気概が欲しい。
 少なくとも私はそう思って物を書いていたし、だからこそ今「適当」には書けないと思っている。(適当でも何でも書かない事には始まらない、という別な側面も痛いほど痛感しているが)

 三十路を迎え、もうじき3人目の子供を授かる今(と言っても授かるのは年明け3月末だが)、少しずつ蓄えているものが奔流のように外側に流れ出る時が来るような予感がしている。
 その時を楽しみに待ちながら、少しでもいろいろなものを蓄えておこうと思う今日この頃である。

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 10月2日(木)に行われたDesigner meets Designers 04に参加したのでその内容と感想を簡単にメモ。

 ノイフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者である若宮さんの知り合いという関係で演奏会にご招待いただいたので、去る10月12日(日)に津田沼にある習志野文化ホールに行って来た。

 子供の頃から家にあるステレオセットでクラシックレコードを聴いたり、N響アワーを毎週見たり、親に連れられてN響の演奏会や第九に何度となく足を運んだおかげで、オーケストラに対してそこそこ耳が肥えていると思うのだが(とはいえ、そんなに偉そうに言うほどではない)、その私としては「下手ではないアマチュアオーケストラ」という印象。
 立ち上がりは緊張からか若干の乱れもあったものの、以後は立ち直ってこれという大きなミスもなく演奏できていたと思う。「上手かった」かと言われるとそう断言するにはやや実力(練習)不足ではあったのだが。

 久しぶりにオーケストラの演奏会に足を運んだが、合唱とはまた違う音楽の空間に身を浸してのんびりする事ができたのは大きな収穫だった。
 若宮さんからは何度となく演奏会にご招待いただいていたのだがいつも都合がつかずに残念な思いをしていたのだが、今回初めて指揮する姿を目にする事ができ「やはり上手い人は違うなぁ」と感心する事しきりだった。もっと熱血漢で指揮するのかと勝手にイメージしていたのだが、全体を俯瞰して威厳のある指揮をされていたので少し意外だった。(でも格好良かった)

 三連休なのにどこにも行かないのは何なので、10月13日(月・祝)は家族で映画を見に行った。
 さらば仮面ライダー電王と迷ったが、娘(1歳10ヶ月)もいるのでポニョに。

 蘇我にあるエクスワイジー・シネマズ蘇我に行ったのだが、9時半からの上映を目指して9時10分頃に着いたら長蛇の列。うむむ、幕張のシネプレックスだったら朝1番の回はこんなに混まないのに、と思ったが、大規模な駐車場があるかないかの違いなのかもしれない。ちなみにシネプレックスに行かなかったのは、単純にポニョの朝の回がなかったから。12時半からの上映はあったのだが、子供たちは昼寝の時間なので。

 感想としては、まぁ子供向けファンタジーとしてはこんなものかな、という程度。腹も立たない代わりに絶賛するほどでもないかな、と。ただ子供には少し分かりにくい気もする。息子はまだ5歳だし、小学校低学年くらいになればまた違うのかもしれないが。


 印象深かったのが主人公の男の子の母親がなかなかたくましい事。すごい勢いで車を運転するし、料理はするし、子供を2人小脇に抱えるし、決断力も行動力もある。
 それに比べて、船乗りの父親には目立った活躍がない。基本的に、物語の断片を「目撃」する役所。それによって見ている人は物語を追いやすくはなるのだが、ただ目撃するだけといった受動的な行動ばかりなので、はっきり言っていてもいなくてもいいのでは、と思える役回りである。

 男親として思ったのは、それはあんまりじゃないか、という事。確かに昨今の女性はたくましいし、男性は仕事で家を空ける事が多く子育てには関与しない人も多い。そういう現状を素直に投影していると言えなくもないだろう。

 だが。

 子供をターゲットにした映画なのだ。もう少しお父さんが頼りになるところも見せられなかったのだろうか。この作品のお母さん並みに活躍して欲しいとは言わない。それでもほんのちょっとした行動や仕草でいい、「ああ、お父さんもすごいね」というところを見せて欲しかった。

 最近の子供、特に娘が父親を軽蔑する事が多いように思うのだが、その原因の多くは母親が父親を軽視している事にあると思う。母親との接触時間の方が圧倒的に多い子供からしてみれば、自分の母親が軽視している相手を尊敬するのは難しい話だ。
 美化するのもまた良くないが、子供や母親とは全く違う土俵の上で、それでも「家族のため」という同じ方向を向いて頑張っている父親の事を、母親はもう少し評価し敬意を表しても良いのではないだろうか。そんな相手を選んで結婚したのは他ならぬ母親なのだから。
(だらしない父親が多いのも事実名用なので、そういう人たちには尊敬される父親を目指して日々精進して欲しいとも思う)

 二児の父親として映画を見ていて、「父親はいつ出てくるのか」「父親の活躍はいつ?」と思い続けたまま映画が終わってしまった時の脱力感。世のお父さんたちは感じないのだろうか。
 それとも、そもそもこの映画を子供と見に行くお父さんたちは少ないのだろうか。

 ふと考えてみると、ジブリ作品(宮崎監督作品)には父親が活躍するものはほとんどない気がする。
 魔女の宅急便での旅立ち前の父親とキキとの交流はいい描き方だと思うが、それ以外は(紅の豚より後は何度も見た事がないのもあってよく知らないが)あまり存在感がない。(ラピュタのパズーの父親は過去の人扱いだし)
 父親が主人公の冒険活劇は望まないが、もう少し父親の存在感が高い作品が増える事を期待したい。

 昨日緒形拳さんの訃報について日記を書いたので2日連続はどうだろうと思ったのだが、書かずにはいられない。
 作曲家の福田和禾子さんが亡くなられた。

「北風小僧の寒太郎」 作曲家、福田和禾子さん死去

 数々の曲はWikipedia(上記リンク)を見ていただくとして、私にとってもっとも印象深いのは「ありがとう・さようなら」である。もちろん「北風小僧の寒太郎」や「赤鬼と青鬼のタンゴ」だって思い出深いし、「そうだったらいいのにな」や「バナナのおやこ」だって懐かしい限り。さらには「おかあさんといっしょ」の「はみがきじょうずかな」もこの人の作曲だ。
 それでもなお、私にとっては「ありがとう・さようなら」なのである。
動画 (みんなのうた -ありがとうさようなら- | 無料動画・おもしろ動画のムービーポータル-AmebaVision[アメーバビジョン])

 初回放映は1985年らしいのだが、卒業シーズンになると毎年のように放映されていたように記憶している。(当時小学校低学年なので、記憶違いかもしれない)

 ゆったりとした穏やかなメロディー。冗長すぎない歌詞。それらを壊さない静止画ばかり(一部例外あり)の映像。毎年この曲を聴く度に季節を感じ、そしてまだ「卒業」というものに対して確たるイメージも持っていなかったにも関わらず何となく切なくなったのを覚えている。

 謹んでご冥福をお祈りしたい。

P.S.
 この曲って中井貴一が歌ってるのね。知らなかった……。

津川雅彦、故・緒形拳さんの最期を綴る (ニュース-ORICON STYLE-)

何とも言えない気分になった。
今朝は妻の体調が悪くて、子供や妻の起床がいつもより1時間遅かった。
7時にテレビを点けて(もちろんNHK)「今日の主な項目」に「緒形拳死去」の文字を見た時、はっきり言って意味がよく分からなかった。

緒形さんの演技の印象は、毎年欠かさず見ていた大河ドラマを通じたものが多い。

あの何とも言えない渋さが大好きだった。
時に力強く、時に厳しく、時に温かく、時におちゃめな演技が大好きだった。

そして津川さんとの最後の会話。なんと温かく、なんとさりげなく、そしてなんと心に響く言葉なのだろう。

先日、保育園の運動会に私の両親が来てくれた。
父親は子育てに関しては「オレは方針を決める。おまえ(母)がそれを実践しろ」というように絶対家父長制の一番上にどっしりと君臨しているような人なので、「いいお爺ちゃん」になるのが嫌(恥ずかしい?)なのかあまりそういう行事には来てくれなかったのだが。

孫達の出番を待っている間、少し離れた場所に腰掛けていた父。
その背中の曲がり具合に気付いて、何だか切なくなった。

私にとっては鬼より怖い(と家を出るまで思っていた)父。
いつまでも昔と変わらないと思っていたけれど、人は必ず年をとるというごく当たり前な自然の摂理を目の当たりにして、私は運動会そっちのけで激しく動揺してしまった。

その時を迎えたら、自分は父と最後にどんな会話をするのだろう。
いつ、どの会話が最後になってもいいように、親と話せる機会を大切にしようと思う。

合唱団の練習(18時~ 新宿)に行こうと駅で電車を待っていたら、到着した電車の車中が赤い!どうやらフクダ電子アリーナ帰りの浦和レッズファンが大挙してご乗車の様子。おかげでいつもならのんびり座って行けるはずなのに全く座れない。ポーター(キーボード)を持っているから座りたいのに……。何だか行くのが面倒臭くなってきたが、ポーターを持っているから行かない訳にもいかない。

ちなみに地元ジェフ千葉との戦いは、3-2でジェフの勝利だった模様。レッズはどちらかと言うと好きな方だしレッズファンに恨みがある訳ではないが、ジェフよくやった!やはり地元が勝つのはうれしいものである。



と書いていたら、途中で何とか座れた。

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