そして何故か記事投稿画面で「本文」のtextareaがvisibility: hidden;になって投稿できない罠。
ひとまずデベロッパツールからいじって表示させてこの記事を書いているのだけれど、上手く投稿されるかしら。
マリーンズ時代の的場の応援歌、好きだったのよね......。
ーーーー
]]> (パーパーパーパー) いっけーいけいけいけいけあかぐみ!(パーパーパーパパー パラッパラッパラッ) よっしゃいくぞー!
※
(パーパーパパーパー) あ・か・ぐ・み!
(パーパーパパーパー) あ・か・ぐ・み!
あーかーぐーみーのちからー あーわーせーろー
おーれーたちーのー ちーかーらみせーつーけろー
そーれゆけー あかぐーみー
(パンパパンパンパ) あかぐみかつぞー!
(パンパパンパンパ) しろぐみたおせー!
(パンパパンパンパ) あかぐみかつぞー!
(パンパパンパンパ) しろぐみたおせー!
(※に戻る)
ーーーー
文字にするとださい......(-_-;)
本来「まとば」と3文字のところに「あかぐみ」と4文字を入れてるから無理があるしね。
いい加減に家にある大量の合唱のカセットテープを何とかしたいから、どんどんパソコンに取り込まないとなぁ、と思いつつ10年くらいが過ぎてしまった今日この頃。
昨日はいつものように仕事で出身大学でお世話になった教授のI先生の元を訪れていたのだが、話の弾みで私が学部1年だった時のF先生のエピソードをお話ししたら、「F先生がお亡くなりになったのはご存じですか?」と切り出されてびっくりした。
今月1日に亡くなられたとのこと。
癌で闘病されていたとのことで、それでも齢80を越えて亡くなる2週間前まで精力的に原稿を書かれて、自宅療養を選ばれて亡くなる前日まで普通に会話もしていたというのだから、これはもう大往生と言って良いと思う。
ご本人の希望で内々で葬儀は済まされ、大学への届け出も10日ほど後だったとの事で、派手な事を好まれないF先生らしい。
I先生によると、ご退職されてからは精力的に本を出され、その数は40冊をゆうに越えるとの事。
F先生がご退職後にのんびり余生を過ごされるなんて想像もできないから、F先生らしいなと思う。
(そういえばI先生から、F先生が出版された自伝の上巻を頂いたのにまだ途中までしか読んでない事を思い出した)
I先生や、どこからどう見てもヤクザにしか見えないB先生が、かわいく見えるほどのその風貌と言動。(特に後者)
何を話していてもこちらが怒られているように感じてしまうべらんめえ口調。
どう考えても嘘っぽいけどF先生なら実話でも全く不思議ではない数々の武勇伝。
口の悪さの端々から見え隠れする学生への愛。
学部4年生の時になぜか一般教養科目を持たれていて、テストの後で「これが取れないと卒業できないんです」と泣きつく学生を「そんなん知らん」と一蹴した、努力しない人を許さないその姿勢。(その代わり努力する人には何だかんだ言いながら目をかけてくれる)
卒業後お目にかかる事はなかったけれど、そのスケールの大きなお人柄で、間違いなく私の人生に大きな影響を与えた人の1人だと思う。
学部1年の時の中国文学基礎演習C、そして学部4年の時の一般教養科目では大変お世話になった。
特に1年の時は「大学合唱団のAさん(私と入れ違いに大学を卒業。当時オープンキャンパスでF先生の授業を受講していた)の後輩なんです」と言って以来、個人的に話しかけられるような事はなかったけれど、何だかんだで目をかけて頂いていたような気がする。
慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
]]>
私は当時高校2年生。
中野区に住んでいて、学校に行くためにバスに乗った。
家から高校へ行くには、まずバスで1回東京メトロ丸ノ内線の荻窪駅に出て、駅の改札前を通って北口から南口に移動し、そこから再度バスに乗る必要がある。
後から知ったのだが、私が荻窪駅でバスを乗り継いだ後にサリンの発生した電車が荻窪駅に到着したようで、もし時間がずれていれば私も事態に巻き込まれていたのかも。
これがどうTRPGと結びつくかというと、私が高校に向かった理由は「高校内のTRPGサークルの活動のため」。
高校2年の時に、1年の時の担任だった英語の先生を拝み倒してTRPGサークルを立ち上げていたのだ。(顧問1名と構成員2名がいればサークルは自由に作れた)
サリン事件の事を見聞きすると、痛ましさと同時に、高校時代のTRPGサークルでの楽しい思い出も蘇ってきて、何とも複雑な気分になる。
]]>私が友人に誘われて千葉マリンスタジアムに初めて行ったその日、先発していたのが藪田選手だった。
その時友人が言った言葉は、今でも忘れられない。
今日の先発は藪田なので期待しないで下さい。
今でこそ分かるが、当時はその言葉の意味がさっぱり分からなかった。
そもそも「藪田」という選手の名前すら知らなかったのである。
で、試合は友人の言葉通り敗戦。
確かその後2試合連続で、観戦に行った試合の先発は藪田。
覚えましたよ、藪田、やぶた、ヤブタね。
勝てない先発藪田。
しかし2004年にボビー・バレンタインが監督になり、中継ぎに配置転換されてからは、その才能を開花させた。
YFKの一角を担って2005年の日本一の立役者となった事を記憶にとどめている人も多いはず。
大リーグ挑戦、マリーンズ復帰を経て、マリーンズの守護神となり、まだまだやってくれると思っていたのに、今年はケガの影響もあって1軍はおろか2軍でも登板がなかった模様。
今季は小野晋吾も引退を表明していて、久しぶりにホーム最終戦に観戦に行きたいような気分である。
(でもかなり混むから子連れは辛いし、子どもを置いて自分だけ行くのも気が引ける)
1年以上放置してしまったのに、こんな中身のないエントリーですみません。
なお .in ドメインは「whois情報公開代行サービスの利用」を禁止しているという事を最近知りました。
厳密に言えばこのBlogもNGな訳です。いつ停止されてしまっても文句は言えません。
ということで、急に「saku.in/blog」にアクセスできなくなるかもしれません。
データが消える訳ではないので、その場合は「www2u.biglobe.ne.jp/~hiko_s/」からのリンクを張り直します。
ですので、アクセスできなくなった場合は「www2u.biglobe.ne.jp/~hiko_s/」にアクセスしてみて下さい。
ちなみに今日、別Blogに「以前所属していた社会人合唱団の人からメールをいただいたのにお断りの返信をした話」という記事を書きました。
MT6も発表になったので、試してみたいなぁ。
ここまでが基本。会長×3+1である。
以下が会長に付随してきたもの。
以下は、会長とは関係ないけど小学校の保護者の中からやってくれる人が出なかったので仕方なく兼務するもの。
全部で9つ。
中には「会合が年に2回あるだけ」というものもあるが、なるほど、妙に忙しく感じる訳だ......。
※ もちろん、これとは別に仕事もあれば家事も育児もある。
キャリーオーバーがたくさん発生しているのはtoto BIGだっけ?
とりあえず時系列に並べてみる。
・次年度、保育園の保護者会会長をやることが決定
役員決めの際にみんな「無理」オーラが出過ぎていたのと、次男と同じクラスのお母さんに振られてつい。
【3月】
・次年度、小学校保護者会の役員をやることが決定
今年度「環境部」という資源回収とベルマークの担当をしている部の部長をしており、隣の小学校との合併に伴っていろいろごたごたしていたので、部長2年目を決意して立候補。
・次年度、子供ルーム(学童保育)の役員をやることが決定
子供1人に対して1回やらないといけないので、いつかは通らないといけない道。
しかし何故か「会長」としてロックオンされている気配が......。
・次年度、小学校保護者会の会長をやることが決定
役員10人(欠席1名)での話し合いの中で、「環境部(次年度は資源部)部長」を熱望するも「いやいや、もっと違うポストの方が」「夜の会合に出られないのは副会長の私が代わりに出ますから」「みんなで協力しますから」と1つずつ丁寧に外堀を埋められて引き受けざるを得ない状況に......。
・次年度から、団地の管理組合役員(任期2年)をやることが決定
昨日は3月生まれの人の誕生会が実家で催され、姉夫婦やその子供達もやって来て大いに楽しかった。
が、その間に行われていた団地の管理組合役員選出(事前に欠席連絡済)では、階段別に行われた予選で代わりにジャンケンをして下さった方が負けてしまい、階段代表の中で行われたジャンケンでも代わりにジャンケンをして下さった方(先ほどとは別の日と)が負けてしまったそうで、晴れて管理組合の役員に。
土曜日の夜に月1回の会合があるらしく、子供ルームの役員会と重ならないか、大学合唱団の各種飲み会と重ならないか、戦々恐々である。
ま、毎年毎年あれやこれやが続くより、1~2年でほとんど終わってしまう方が一瞬きついけどきっと長い目で見れば楽に違いないと信じてやるしかない。
今これだけ冷静に受け止められているのは、週末に合唱団がないからかも。
今年に入って退団して以降、合唱団の練習がないおかげで家事や育児といったやりたいことをやる時間が以前に比べてかなり確保できていて、日常が以前より充実している印象。
それでも自分のやりたいことをやるにはいまいち時間が足りていないのだが......。(時間の使い方が下手だとも言う)
ちなみに保育園でも小学校でも保護者会会長なので、今年年長さんの娘は『卒園式でお父さんが保護者会会長として「卒園おめでとう」とスピーチ』した翌月に、『入学式でお父さんが保護者会会長として「入学おめでとう」とスピーチ』するという希有な体験をすることになる。
3月末までに終わらせないといけない仕事があり、2月下旬には「眠眠打破」を箱買いして夜な夜な仕事をしていた。
「どうやら何とかなりそうだ」
ようやく先が見えてきた。そんな時期だった。
毎週のように渋谷へ出向いて打ち合わせ。曜日はまちまちだったが、おおよそ13時頃から。
しかしあの日、たまたま打ち合わせは15時半からだった。
私はいろいろあって家を出るのが遅れ、とにかく急いでいた。
乗りたかった電車には乗り遅れ、電車の中でも走りたいくらいの心境。
京葉線の電車が新木場駅に着いた。ここで有楽町線へ乗換だ。
乗換案内では多くの場合7~8分ほどの余裕を見て案内してくるのだが、京葉線で新木場駅の階段そばに位置取ってドアが開くと同時にダッシュすれば2分弱で乗り換えられる事を私は経験から知っていた。
ドアが開いた。ダッシュ!
渋谷へ行く時はノートパソコンやら資料やらで大きな荷物になる。
勝手知ったる重さを抱えながら、有楽町線のホームへ。
そこには予想通りというか期待通り、電車がいた。
永田町駅での乗り換えを考えると先頭車両に乗るのが最も時間を節約できる。
発車のベルが鳴るまではホームを歩き、ちょうど先頭車両にさしかかった頃にベルが鳴ったので電車に乗り込んで座席に腰を下ろした。
「これで何とかギリギリ間に合いそうだ」
ほっとしたまさにその時。
それが2011年3月11日の、あの時だった。
最初はよく分からなかった。
気づいたきっかけは、ベルが鳴り終わったのに電車の扉が閉まらなかった事。
「何故発車しないの?」
「これで間に合わなくなったら困るな」
そんな事をぼんやり考えていたら、周囲で「地震?」「地震?」というざわつきがわき起こった。
「え、地震?」
注意を払ったその時、急に大きな揺れがやって来た。
新木場駅の有楽町線ホームは、地上から比較的高いところにある。
そして電車は車体の揺れを吸収するサスペンションがある。
この2つの要因が合わさって、電車は左右に(座席に座っていたので私の感覚では前後に)大きく揺れた。
一瞬「電車が横転するのではないか」と思うほどに。
駅員が何か叫んでいた。どうやら電車から降りろと言っているようだ。
「危険」とかそういう感覚はあまりなかったが、とにかく言われるままに電車から降りる。
すると「駅から出て下さい!」と駅員が叫んでいた。
この時も漠然と「あぁ、高い建物は危ないのか」などと思いながら、のろのろと駅舎を出て駅前のロータリーにたどり着く。
そこは、同じように京葉線・有楽町線・りんかい線からやって来たであろう人々でごった返していた。
以前東京近郊を震度5の地震が襲った時に、京葉線は6時間以上止まっていた。ほぼ全線が高架なので、安全確認に時間がかかるらしい。
「とりあえず、京葉線は今日はもう駄目だと思った方が良いな」
となると、有楽町線とりんかい線がいつ運転を再開するかだ。
すぐ動くのであればやはり仕事に行かねばならないだろう。
この時は、まさかこの地震が東北で、そして関東でも大きな被害をもたらすようなものだとは思っていなかったので、私の心配事は3月末に迫った仕事の納期と、そのためには渋谷まで行かなければという事だった。
新木場駅前のロータリーの植え込みの縁に腰掛けて、私は携帯をいじった。
案の定と言うべきか、電話は全く通じない。ネットは繋がる。
Twitterである程度の情報はつかめたが、電車は動きそうになかった。
そして携帯の電池はすぐなくなるので、そうそうネットに張り付いている訳にはいかない。
とりあえず妻にメールをしておいた。
たまたま隣駅に住む義母に子供達のお迎えをお願いしていたので、子供が保育園や小学校に取り残される事はなさそうだ。
義母にもメールをしておく。
妻からは比較的早く返信が来たが、義母からは音沙汰がなかった。
後日、私が義母に送ったメールは夜8時頃になってようやく義母の携帯に届いた事を知る。
この日、外はそれなりに寒かったが、たまたまいつも以上に厚着をしていたためじっとしていても「寒くて凍える」という事はなく、私の気持ちには余裕があった。
本当なら周囲の写真を撮りたかったが、携帯の電池が心許ないのでやめておいた。
周囲の人たちを観察しながら、状況に変化が起こるのを待つ。
1時間ほど経った16時頃。
どこからか「夢の島で帰れない人を受け入れます」という呼びかけが聞こえてきた。
それを聞いてその場にいた人のうち1割弱程度が動き出したが、全体としては皆その場にとどまっていた。
さすがにそろそろ身の振り方を考え始めた私は、新浦安に両親と姉夫婦が住んでいる事を思いだした。
「新木場という縁もゆかりもない場所で困ったものだ」と思っていたのだが、新木場から新浦安は京葉線で2駅。駅間は広いが、調べてみたところ歩いておよそ2時間ほどの距離らしい。
相変わらず携帯はつながらないので公衆電話から実家に電話をしようかと思ったのだが、その時には公衆電話は長蛇の列だったので諦めた。
ちなみにこの時点でも、まだ渋谷へ仕事に行く事を考えていた。
17時。
周囲が少しずつ薄暗くなり始める。
さすがにこの時間から電車が動いても渋谷の相手先に付く頃には18時になってしまう。
これは行っても仕方ないと見切りをつけて、実家に移動する事を考える。
その矢先、携帯に着信があった。
実家からだった。
固定電話は問題なく使えたようだ。
私は状況を説明し、京葉線は動かないだろうから泊めて欲しいと伝えた。
父が車で迎えに来てくれるという。
新浦安から新木場までは徒歩2時間、約8kmだから車ならあっという間だ。
ほっとした私は、父をどう待ち受ければ良いかを考えるため、駅の近くの幹線道路へ向かった。
幹線道路は、大渋滞だった。
車は遅々としてほとんど動かない。
こう渋滞していては迎えに来てもらう事など夢のまた夢だという現実を思い知った。
私は父にメールをした。
父は普段携帯メールなどほとんど使わない人なのでいつ気づいてくれるかは謎だったが、とりあえず「大渋滞につき迎えは無謀。こちらが歩いて行くからメールに気づいたらすぐ引き返して」と打った。
2時間の小旅行が始まった。
空はどんどん暗くなり、気温も少しずつ下がってくる。
しかし横を見れば幹線道路には車があふれ、歩道には同じく徒歩での帰宅を決意した人たちがたくさんいたので心強かった。
余震があったら高速道路が崩れてくるのではないかという事だけが心配だったが、途中から高速道路の真下を歩かなくて済むようになったので、後は時間さえかければ良いという気軽さが生まれた。
ディズニーリゾートが見えてきた。
相変わらず夜景に映えて美しい。
しかしこの日、ディズニーリゾートより目をひかれるものがあった。
はるか東のかなたで、何かが燃えていたのだ。
コスモ石油のタンクが燃えたのだという事は、ネットの情報で知った。
進行方向にあったその炎は、皮肉にもとても美しかった。
市街地が近づいてくる。
その辺りまで来ると、徐々に液状化の影響を目の当たりにすることが増えてきた。
幹線道路を新浦安駅の近くまで進むより、住宅地の中を抜けていった方が早いと思ってそういうルートを取ったのだが、本当にひどかった。
道路からは水が吹き出て、一部陥没していた。車がそこを通ると、車の底をこする嫌な音が聞こえた。
戸建て住宅に停めてある車は、ほとんどがタイヤの真ん中辺りまで泥に埋まっていた。
戸建て住宅にある交差点は泥に埋もれ、進路を確保するのが難しかった。
ようやく実家のマンションが見えてきた。
遠目に見る限りでは、特に被害はないようだ。
しかし実家の目の前の交差点はひどい状態だった。
それまで慎重に進路を選んで靴が泥にまみれることもなく来た私だったが、実家が目の前だという安心もあったのか、この交差点で危うく足を取られかけた。
19時10分、実家到着。
実家は水が出なかったが、電気は問題なく使えたので母が簡単な食事を出してくれた。
しかしほっとしたのもつかの間、私はテレビの映像に衝撃を受けた。
津波。
そこに映し出されていたのは、にわかには理解しがたい壮絶な津波の映像だった。
「これは被害者が1万人を越えるかも」
呆然とつぶやいた私に、父は「1万人で済めば良い方ではないか」と言った。
後日、この悪い予感は残念な事に当たることになる。
20時頃、妻からメールが届いた。
妻の職場は隣駅なのだが駅間が広く、通常通りの仕事をこなしてから徒歩で帰宅したのだという。
自宅はメタルラックが1つ倒れていたものの、それ以外には特に影響はなかったらしい。
しかし実家と同じく水が出ないとのことで、小さい子供3人を抱えていてはさぞ不安だろうと心配になる。
そうこうしている間にも東北では余震が続いていた。
私の携帯はdocomoで、iコンシェルが全国津々浦々の震度3以上の地震を通知してくれるため、携帯はひっきりなしに鳴っていた。
しかもあまりに回数が多いせいか、普段は地震発生の10分ほど後に通知されるのにどんどん遅れがひどくなっていて、22時頃にはほぼ4時間遅れになっていた。
このまま鳴り続ける携帯を横にして眠れるだろうか。
そんな不安もあったが、0時頃まで両親とテレビを見ながらあれこれ話をしてから布団に入ったら、2時間歩き続けたこともあって比較的早く眠りにつくことができた。
【3月12日(土)】
朝食後、9時過ぎに実家を出て帰宅することにした。
京葉線はまだ動いていないようで、動き出すのを待っていてはいつになるか分からないので東西線の浦安駅まで父に車で送ってもらう事にする。
渋滞が心配だったのだが、そこまで混むこともなく浦安駅到着。
しかしあまりに人が多すぎて駅には入れない。
とは言え「絶対に早く帰らないといけない強い理由」はないので、のんびり構えることにする。
下り方面にも関わらず朝のラッシュさながらの電車とバスを乗り継いでようやく自宅そばまでたどり着くと、新浦安ほどではないもののあちこち液状化していた。
12時頃にようやく自宅へ帰宅。子供達が笑顔で迎えてくれてほっとする。
水が出なくて困るが、夕方頃にはどうも団地の中の比較的すぐそばの棟までは水が出るようになったらしい。
これで「必要があればすぐそばで水が汲める」状態になったので、精神的にはずいぶん楽になった。
ちなみに家の水道から水が出るようになったのは、3月14日(月)の夕方だった。
この日は千葉マリンスタジアムでオープン戦があり、栄光のオリオンズ戦士「堀幸一選手」の引退セレモニーが行われることになっていた。
私は事前にチケットを購入しており、午前中に保育園の懇談会と保護者会総会に出たらそそくさと球場に向かうはずだったのだが、当然と言えば当然ながら懇談会も保護者会総会もオープン戦も引退セレモニーも中止。
【地震時の子供達】
○ 長男 (当時7歳)
子供ルーム(学童保育)で被災。
大きな被害はなく、義母が迎えに行くまで庭でおやつを食べたりして待機していたらしい。
○ 娘 (当時4歳)
保育園で被災。
地震が来たので園庭に避難したのだが、副園長の話によると園庭も液状化したので2回ほど園庭の中でも場所を移動したらしい。
「みんなでお外でおやつを食べて楽しかった!」
○ 次男 (当時2歳直前)
全く何も理解できず、何も覚えていない模様
【その後】
目的は何と言っても「清明上河図(せいめいじょうかず)」
前々から話だけは聞いていたのだが、まさか日本にやってくるとは思わなかった。(中国でもめったに公開されないらしい)
この特別展自体は2012年1月2日(月) ~ 2012年2月19日(日)という期間なのだが、清明上河図は1月24日まで。土日は混むから避けようとすると、行ける日はそう多くはない。
先週の段階から今日に照準を合わせて仕事なども調整し、朝子供たちを保育園に送ってその足で最寄り駅へ向かった。
・入場:60分待ち
・清明上河図:180分待ち
つまり、清明上河図を目にするまで4時間かかるという事だ。4時間というと13時45分?
入場までは外に並んでいたので寒かったのだが、これを見越して厚着をしていたので耐えられないほどではなく。携帯をいじりつつ待つ。
途中からはテントがあり、傘をさす必要がなくて楽になった。
が、テントの屋根に溜まった水を下から突いてこぼして楽しむおっさんがいたり、それを笑って見ているお仲間がいたり、「こっちは学術的興味で見に来てるのに!」とか無意味にイライラしてみたり。
中に入ってからはひたすら3DSでスーパーポケモンスクランブル。
既にクリアしているので、ポケモンのコンプリートを目指してひたすらプレイ。
遅々として進まず、長時間ゲームをする習慣がない私は途中でゲームに飽きてしまった。他にやる事もないからずっと続けていたけど。
国立博物館到着から3時間半ほど経過し、ようやく清明上河図の陳列されているケースが見えてくる。
そして、ここまで時間がかかる理由もはっきりわかった。(薄々悟ってはいたけど)
とにかく立ち止まって長々と見続ける人が多いのだ。
係員はひっきりなしに「立ち止まらないでください」と言っているのだが、聞く耳を持たない。
「こんなに長く待ったんだから」と係員に反論する人もいたのだが、そういう人がいるから後ろの人はさらに長く待つ事になるのだ。負の連鎖になっている事に気づいていないのか、他の人は知った事ではないという事なのか。
私はというと「細部は図録で見ればいい話。現物がいったいどういうものなのかの概論がわかればOK」と思っていたので、前の人に続いてさっさと見てしまう。
自分勝手な人の多さにイライラしていたので、正直清明上河図にあまり集中できなかった。残念。
清明上河図を見終わってから、その他の展示をざっと眺める。
今回は清明上河図があまりにメインすぎて、その他のものは「雑多」という印象。
貴重ではあるが、過去に中国関係の展覧会に何度も足を運んだ事のある私としては、似たようなものを目にした事が多いのでちらっと見るだけで終了。
書が多かったような印象だが、それもやはり「雑多」という印象だった。
14時過ぎに国立博物館を出て、上野駅へ。
駅ナカで遅い昼食をとろうと思ったのだが、いまいち惹かれなかったので東京駅へ。
そこでもいまいち惹かれるものがなく、結局「冷やしうどんとミニネギトロ丼」という上野でも食べられたのではないかというメニューに落ち着いたのであった。
往復に約3時間、並ぶのに4時間、清明上河図を含む展示を見るのに約20分。
結果論ではあるものの、かけた労力にはちょっと見合わなかったかな、と思う今日この頃。
これまで図録などで見た事のある清明上河図と現物との間に、目立った差異がなかった(「やっぱり本物は違うな」と思えるポイントが少なく、ほぼ予想していた通りだった)のがその理由。もちろん本物を見る事に意味はあるのだが。
後は、学術関係者に公開される日とかあればいいのになー、などと思ったりした。
大学で中国文学を学んでいる学生さんなどはぜひ目にした方が良いものなのに、普段中国に関心を持っていないような「ありがたいものを拝みたい」だけの人が大挙して押し寄せているために、そういう人たちの足が遠のいているのではないかと心配である。
特に何をした訳ではないのに、ぐったり疲れた1日だった。
1次会の終わりに今年の演奏会実行委員長の子とアドレスの交換をし、2次会会場へ。
2次会会場では最初にお手洗いに行った以外はずっと同じ場所に座りっぱなし。
で、2次会会場から出たところで時間を確認するために携帯を取り出そうとしたら......ない。
しかし前述の通り納会前からアルコールを摂取していた事もあって、どこで落としたかの心当たりがさっぱりない。
現役の子は、私の携帯に電話して鞄の中で鳴っていたりしないか確認してくれたり、1次会2次会それぞれのお店に問い合わせてくれたりと努力してくれたのだが、残念ながら出てこず。(この間、私ははっきり言って役立たず。本当に申し訳ない)
結局「もしお店で見つかったら僕に連絡してくれるように話をつけておいたので」と現役の子が言ってくれたので、自宅の電話番号を伝えて帰宅する事に。
いつ連絡があるか分からないし、連絡があるなら早朝の閉店間際だろうから朝まで行った方が良いのでは? という考えも頭をよぎったのだが、今週はどうにも体調が悪くて養生したかったので断念。
1時過ぎに帰宅してから、携帯を落とした上に現役に迷惑をかけたショックでいまいち寝付けなかったので「GPSで現在位置を検索できないのかしら?」と調べてみる。
すると「My docomo」にログインして「紛失・盗難時のお手続き」から携帯電話のロックや現在位置の確認ができる事が判明。さっそくやってみた。
すると、やはり飲んでいた辺り(1次会と2次会の場所は至近だった)にあるらしい事が判明。
移動中に落とした気はしないので、お店が閉店の片付けをする時か、あるいは開店準備中にきっと見つかるのではないかと期待する事に。
そして今日。午前中に連絡があって「見つかったので、○○(私の家から徒歩10分くらいの場所に住んでいる)にお宅まで届けさせます」とのありがたい申し出を受ける。
「私も渋谷のお店に行ってちゃんと自分で確認しないといけないのでは」などと考えていたので、家で待っていれば良いというは本当にありがたい話。最寄り駅も一緒、駅からの方向も一緒、歩いて10分の距離に住んでいる団員がいたのも幸運だった。(しかもその子は次年度副学生指揮者就任予定なので、まさに直属の後輩である)
その子の都合もあるだろうからとのんびり構えていたら、18時過ぎに電話があって「これからお持ちします」との事。
近所のスーパーを待ち合わせ場所にし、無事に見慣れた携帯を再び手にする事ができた。(「これで持ってきた携帯が私のじゃなかったらどうしよう」と不安だったのは内緒)
しかも持ってきてくれた子は「昨日"体調があまり良くない"と話されていたので」と、袋入りののど飴を一緒に渡してくれた。
「こ、こいつできる......」
いやもうただただ感動。
飲み会に参加してはぐだぐだと話をして、団員より少し多めにお金を払うだけのOBなのに、ここまで気を遣ってもらえてありがたいやら申し訳ないやら。
手元に「これ持ってけよ」と言えるような何かがなかったので、来年2月にある「追いコン」の時に何かプレゼントを......という事にして今回の件はひとまず終了。
うーむ、迷惑をかけないOBでいたい、とずっと思い続けていたのだが、まさかこんな形で迷惑をかける事になるとは。
今後は迷惑をかけないように気をつけたいと思う。
<余談>
私より年下のOBの1人が「50回の記念定期演奏会に参加して以来、虚脱感でどうにも仕事に集中できないんですよね」と言っていた。
ここ2~3週間ほどどうにも自宅作業が手に着かなかったのだが、もしかして私も「記念定期演奏会を終えた虚脱感」だったのだろうか?
その後は高校の先生をしたり、大学で教鞭を執ったりしつつ、絶え間ない努力で作曲活動を続けた事が、見事今回の受賞に繋がったのだと思う。
(もっとも高校合唱部の仲間からすると、その間に彼女がさらりと結婚した事の方が驚愕の出来事なのだが)
芥川賞ノミネートの時は聞きに行ったのだが、今回は3人の子供を抱えていて(しかも千葉県千葉市在住では)さすがに聞きには行けず。
Twitter経由で受賞を知り、その日の21時頃に、私の携帯に登録はされているもののかれこれ10年近くかけた事のなかった彼女の携帯に電話してみたところ、ちょうど実家に帰り着いたところだったらしく、久しぶりにあれこれ話をした。
受賞にも浮かれた様子はなく、むしろ未来をしっかりと見据えていて、高校時代と比べてずいぶんと落ち着いたなぁ、などと思ってみたり。(失礼)
その後も、妻と二人で「すごいねぇ」「それに引き替え我々は......」などと話したりしたのだった。(妻は同じ高校の同級生かつ合唱部部長)
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当日の模様などの放送スケジュールは下記の通り。
○ FMラジオ(本選)
11月25日 19:30~21:10
○ BSプレミアム(本選)
12月9日 6:00~6:55
○ Eテレ(ドキュメント)
12月18日 15:00~17:00(予定)
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ちなみに今月、初めての楽譜も出版された。
魚路恭子:女声合唱とピアノのための「花、いっぱい」
http://editionkawai.shop16.makeshop.jp/shop/shopdetail.html?brandcode=002002000640
女声合唱の楽譜なのにそそくさと購入。
機会があったら彼女にサインしてもらおうかしら......。(しかし機会がない)
そしてついでにMovableTypeのバージョンを4系から5系にバージョンアップ。
仕事ではWordPressばかり触っているので、MovableTypeは本当に久しぶり。
何がどうなっているのかもいまいち覚えていないのだが、何とか無事にバージョンアップは終了。
mixiやらTwitterやらFacebookやらはてなダイアリーやら、いろいろやっているのでここの更新頻度がこれを機に上がるという事もなさそうなのだが、たまには更新するようにしたいと思う今日この頃である。
]]>saku.inというドメインを取得して運用しているのでURLの変更などはないものの、移転作業に手間取って一時的にアクセスできなくなる可能性があるのでご了承頂ければ幸いである。
]]>