「物語の薄っぺらさと議論 - プログラマーの脳みそ」を読んで、どうしてあれだけライトノベルと呼ばれる作品が好きだった私が、昨今のライトノベルと呼ばれる作品が好みでなくなったのかが分かった気がした。
フィクションを見てフィクションを描くな対して、薄っぺらいファンタジーというのも沢山あって、都合よく世界を作れてしまうから、リアリティがない。リアリティのない世界で友人が死んでも、そこに「友人が死んだ」というリアリティある悲しみを描けない。死にました、あっそう、みたいな軽い世界である。
潤オ中略潤オ
リアルを観察して、フィクションを組み立てることが大事。物語になった時点でリアルの世界の情報は随分と削ぎ落される。フィクションを観察しただけなのに理解したつもりになってフィクションを組み立てると劣化した世界しか作れない。
ああもう、言いたい事はきっとこれだったのだと思う。
もちろん自分が年を取ったから「何も知らない青臭さ」に辟易してしまうというのも理由の1つではあると思うのだが、それにしても「フィクション」を書くことは実は「ノンフィクション」を書くよりも大変な事が多々ある、という事を分かっていない(ように見える)書き手が多いように思う。
フィクションは「何でもあり」ではない。
知り合いのミステリーを主に書くアマチュア作家さんが、本やアニメの感想で「偶然に必然がない」とよく言っているのだが、よく分かる気がする。その偶然を納得させるだけの何かがないと、「それは偶然だったのだよ」というだけの安易な理由では読者は納得しないのだ。
フィクションはそもそもが何でもありの世界なのだから、その中でまで「偶然」と言われてしまったらただでさえ感じづらい「現実感」がさらに感じづらくなってしまう。
大量生産され、大量消費されるだけの物語で満足しているのであれば、それもまた良いだろう。だが、それは「プロの物書き」ではないと思うのだ。
プロは自分の作品に誇りを持ち、他のどの作品よりも優れた作品を生み出そうとし、しかも主観ではなく客観的にもそう認められるように(売り上げ部数がそれを示すだろう)努力しなければならないと思う。
例えば夏目漱石とだって張り合ってしかるべきだ。
売り上げ部数はもちろん、「20年後には俺の作品の方が教科書や入試問題に取り上げられるようになっている」くらいの気概が欲しい。
少なくとも私はそう思って物を書いていたし、だからこそ今「適当」には書けないと思っている。(適当でも何でも書かない事には始まらない、という別な側面も痛いほど痛感しているが)
三十路を迎え、もうじき3人目の子供を授かる今(と言っても授かるのは年明け3月末だが)、少しずつ蓄えているものが奔流のように外側に流れ出る時が来るような予感がしている。
その時を楽しみに待ちながら、少しでもいろいろなものを蓄えておこうと思う今日この頃である。
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