日付が変わって3月11日。
そう、あの忌まわしい東日本大震災から1年が経った。
2011年3月11日(金)、私は仕事のために渋谷に向かっていた。
3月末までに終わらせないといけない仕事があり、2月下旬には「眠眠打破」を箱買いして夜な夜な仕事をしていた。
「どうやら何とかなりそうだ」
ようやく先が見えてきた。そんな時期だった。
毎週のように渋谷へ出向いて打ち合わせ。曜日はまちまちだったが、おおよそ13時頃から。
しかしあの日、たまたま打ち合わせは15時半からだった。
私はいろいろあって家を出るのが遅れ、とにかく急いでいた。
乗りたかった電車には乗り遅れ、電車の中でも走りたいくらいの心境。
京葉線の電車が新木場駅に着いた。ここで有楽町線へ乗換だ。
乗換案内では多くの場合7~8分ほどの余裕を見て案内してくるのだが、京葉線で新木場駅の階段そばに位置取ってドアが開くと同時にダッシュすれば2分弱で乗り換えられる事を私は経験から知っていた。
ドアが開いた。ダッシュ!
渋谷へ行く時はノートパソコンやら資料やらで大きな荷物になる。
勝手知ったる重さを抱えながら、有楽町線のホームへ。
そこには予想通りというか期待通り、電車がいた。
永田町駅での乗り換えを考えると先頭車両に乗るのが最も時間を節約できる。
発車のベルが鳴るまではホームを歩き、ちょうど先頭車両にさしかかった頃にベルが鳴ったので電車に乗り込んで座席に腰を下ろした。
「これで何とかギリギリ間に合いそうだ」
ほっとしたまさにその時。
それが2011年3月11日の、あの時だった。
最初はよく分からなかった。
気づいたきっかけは、ベルが鳴り終わったのに電車の扉が閉まらなかった事。
「何故発車しないの?」
「これで間に合わなくなったら困るな」
そんな事をぼんやり考えていたら、周囲で「地震?」「地震?」というざわつきがわき起こった。
「え、地震?」
注意を払ったその時、急に大きな揺れがやって来た。
新木場駅の有楽町線ホームは、地上から比較的高いところにある。
そして電車は車体の揺れを吸収するサスペンションがある。
この2つの要因が合わさって、電車は左右に(座席に座っていたので私の感覚では前後に)大きく揺れた。
一瞬「電車が横転するのではないか」と思うほどに。
駅員が何か叫んでいた。どうやら電車から降りろと言っているようだ。
「危険」とかそういう感覚はあまりなかったが、とにかく言われるままに電車から降りる。
すると「駅から出て下さい!」と駅員が叫んでいた。
この時も漠然と「あぁ、高い建物は危ないのか」などと思いながら、のろのろと駅舎を出て駅前のロータリーにたどり着く。
そこは、同じように京葉線・有楽町線・りんかい線からやって来たであろう人々でごった返していた。
以前東京近郊を震度5の地震が襲った時に、京葉線は6時間以上止まっていた。ほぼ全線が高架なので、安全確認に時間がかかるらしい。
「とりあえず、京葉線は今日はもう駄目だと思った方が良いな」
となると、有楽町線とりんかい線がいつ運転を再開するかだ。
すぐ動くのであればやはり仕事に行かねばならないだろう。
この時は、まさかこの地震が東北で、そして関東でも大きな被害をもたらすようなものだとは思っていなかったので、私の心配事は3月末に迫った仕事の納期と、そのためには渋谷まで行かなければという事だった。
新木場駅前のロータリーの植え込みの縁に腰掛けて、私は携帯をいじった。
案の定と言うべきか、電話は全く通じない。ネットは繋がる。
Twitterである程度の情報はつかめたが、電車は動きそうになかった。
そして携帯の電池はすぐなくなるので、そうそうネットに張り付いている訳にはいかない。
とりあえず妻にメールをしておいた。
たまたま隣駅に住む義母に子供達のお迎えをお願いしていたので、子供が保育園や小学校に取り残される事はなさそうだ。
義母にもメールをしておく。
妻からは比較的早く返信が来たが、義母からは音沙汰がなかった。
後日、私が義母に送ったメールは夜8時頃になってようやく義母の携帯に届いた事を知る。
この日、外はそれなりに寒かったが、たまたまいつも以上に厚着をしていたためじっとしていても「寒くて凍える」という事はなく、私の気持ちには余裕があった。
本当なら周囲の写真を撮りたかったが、携帯の電池が心許ないのでやめておいた。
周囲の人たちを観察しながら、状況に変化が起こるのを待つ。
1時間ほど経った16時頃。
どこからか「夢の島で帰れない人を受け入れます」という呼びかけが聞こえてきた。
それを聞いてその場にいた人のうち1割弱程度が動き出したが、全体としては皆その場にとどまっていた。
さすがにそろそろ身の振り方を考え始めた私は、新浦安に両親と姉夫婦が住んでいる事を思いだした。
「新木場という縁もゆかりもない場所で困ったものだ」と思っていたのだが、新木場から新浦安は京葉線で2駅。駅間は広いが、調べてみたところ歩いておよそ2時間ほどの距離らしい。
相変わらず携帯はつながらないので公衆電話から実家に電話をしようかと思ったのだが、その時には公衆電話は長蛇の列だったので諦めた。
ちなみにこの時点でも、まだ渋谷へ仕事に行く事を考えていた。
17時。
周囲が少しずつ薄暗くなり始める。
さすがにこの時間から電車が動いても渋谷の相手先に付く頃には18時になってしまう。
これは行っても仕方ないと見切りをつけて、実家に移動する事を考える。
その矢先、携帯に着信があった。
実家からだった。
固定電話は問題なく使えたようだ。
私は状況を説明し、京葉線は動かないだろうから泊めて欲しいと伝えた。
父が車で迎えに来てくれるという。
新浦安から新木場までは徒歩2時間、約8kmだから車ならあっという間だ。
ほっとした私は、父をどう待ち受ければ良いかを考えるため、駅の近くの幹線道路へ向かった。
幹線道路は、大渋滞だった。
車は遅々としてほとんど動かない。
こう渋滞していては迎えに来てもらう事など夢のまた夢だという現実を思い知った。
私は父にメールをした。
父は普段携帯メールなどほとんど使わない人なのでいつ気づいてくれるかは謎だったが、とりあえず「大渋滞につき迎えは無謀。こちらが歩いて行くからメールに気づいたらすぐ引き返して」と打った。
2時間の小旅行が始まった。
空はどんどん暗くなり、気温も少しずつ下がってくる。
しかし横を見れば幹線道路には車があふれ、歩道には同じく徒歩での帰宅を決意した人たちがたくさんいたので心強かった。
余震があったら高速道路が崩れてくるのではないかという事だけが心配だったが、途中から高速道路の真下を歩かなくて済むようになったので、後は時間さえかければ良いという気軽さが生まれた。
ディズニーリゾートが見えてきた。
相変わらず夜景に映えて美しい。
しかしこの日、ディズニーリゾートより目をひかれるものがあった。
はるか東のかなたで、何かが燃えていたのだ。
コスモ石油のタンクが燃えたのだという事は、ネットの情報で知った。
進行方向にあったその炎は、皮肉にもとても美しかった。
市街地が近づいてくる。
その辺りまで来ると、徐々に液状化の影響を目の当たりにすることが増えてきた。
幹線道路を新浦安駅の近くまで進むより、住宅地の中を抜けていった方が早いと思ってそういうルートを取ったのだが、本当にひどかった。
道路からは水が吹き出て、一部陥没していた。車がそこを通ると、車の底をこする嫌な音が聞こえた。
戸建て住宅に停めてある車は、ほとんどがタイヤの真ん中辺りまで泥に埋まっていた。
戸建て住宅にある交差点は泥に埋もれ、進路を確保するのが難しかった。
ようやく実家のマンションが見えてきた。
遠目に見る限りでは、特に被害はないようだ。
しかし実家の目の前の交差点はひどい状態だった。
それまで慎重に進路を選んで靴が泥にまみれることもなく来た私だったが、実家が目の前だという安心もあったのか、この交差点で危うく足を取られかけた。
19時10分、実家到着。
実家は水が出なかったが、電気は問題なく使えたので母が簡単な食事を出してくれた。
しかしほっとしたのもつかの間、私はテレビの映像に衝撃を受けた。
津波。
そこに映し出されていたのは、にわかには理解しがたい壮絶な津波の映像だった。
「これは被害者が1万人を越えるかも」
呆然とつぶやいた私に、父は「1万人で済めば良い方ではないか」と言った。
後日、この悪い予感は残念な事に当たることになる。
20時頃、妻からメールが届いた。
妻の職場は隣駅なのだが駅間が広く、通常通りの仕事をこなしてから徒歩で帰宅したのだという。
自宅はメタルラックが1つ倒れていたものの、それ以外には特に影響はなかったらしい。
しかし実家と同じく水が出ないとのことで、小さい子供3人を抱えていてはさぞ不安だろうと心配になる。
そうこうしている間にも東北では余震が続いていた。
私の携帯はdocomoで、iコンシェルが全国津々浦々の震度3以上の地震を通知してくれるため、携帯はひっきりなしに鳴っていた。
しかもあまりに回数が多いせいか、普段は地震発生の10分ほど後に通知されるのにどんどん遅れがひどくなっていて、22時頃にはほぼ4時間遅れになっていた。
このまま鳴り続ける携帯を横にして眠れるだろうか。
そんな不安もあったが、0時頃まで両親とテレビを見ながらあれこれ話をしてから布団に入ったら、2時間歩き続けたこともあって比較的早く眠りにつくことができた。
【3月12日(土)】
朝食後、9時過ぎに実家を出て帰宅することにした。
京葉線はまだ動いていないようで、動き出すのを待っていてはいつになるか分からないので東西線の浦安駅まで父に車で送ってもらう事にする。
渋滞が心配だったのだが、そこまで混むこともなく浦安駅到着。
しかしあまりに人が多すぎて駅には入れない。
とは言え「絶対に早く帰らないといけない強い理由」はないので、のんびり構えることにする。
下り方面にも関わらず朝のラッシュさながらの電車とバスを乗り継いでようやく自宅そばまでたどり着くと、新浦安ほどではないもののあちこち液状化していた。
12時頃にようやく自宅へ帰宅。子供達が笑顔で迎えてくれてほっとする。
水が出なくて困るが、夕方頃にはどうも団地の中の比較的すぐそばの棟までは水が出るようになったらしい。
これで「必要があればすぐそばで水が汲める」状態になったので、精神的にはずいぶん楽になった。
ちなみに家の水道から水が出るようになったのは、3月14日(月)の夕方だった。
この日は千葉マリンスタジアムでオープン戦があり、栄光のオリオンズ戦士「堀幸一選手」の引退セレモニーが行われることになっていた。
私は事前にチケットを購入しており、午前中に保育園の懇談会と保護者会総会に出たらそそくさと球場に向かうはずだったのだが、当然と言えば当然ながら懇談会も保護者会総会もオープン戦も引退セレモニーも中止。
【地震時の子供達】
○ 長男 (当時7歳)
子供ルーム(学童保育)で被災。
大きな被害はなく、義母が迎えに行くまで庭でおやつを食べたりして待機していたらしい。
○ 娘 (当時4歳)
保育園で被災。
地震が来たので園庭に避難したのだが、副園長の話によると園庭も液状化したので2回ほど園庭の中でも場所を移動したらしい。
「みんなでお外でおやつを食べて楽しかった!」
○ 次男 (当時2歳直前)
全く何も理解できず、何も覚えていない模様
【その後】
- 長男の小学校は校庭が液状化し、8月まで使えなかった (運動会は隣の中学校の校庭を使用)
- 両親の家と姉夫婦の家は1週間以上断水したため、我が家へ風呂に入りに来た
- 母は風呂とは別に洗濯もしに来た
- 保育園の懇談会は結局中止
- 保育園の保護者会総会は後日平日夜に行われたが、役員以外ほとんど参加者がいなかった
- 総会で園側に「津波が来たらどうするんですか」「2階までしかないからどこか別の場所へ逃げないんですか」という質問が出て、副園長が「乳児もたくさんいて道路が液状化する中では、どこにも逃げられませんよ!」と半ば逆ギレしていた
- 3月末が納期だった仕事はその後4月中旬まで再開できず、年度を越えてしまったために完全にどうでも良くなってしまった模様 (その後若干進んだものの、現在は保留状態)
- つい先日、千葉県からごくわずかながら災害義援金が出た
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