親の責任放棄も甚だしいと思った主張

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 少し古いが「【レポート】繰り返される"悲劇" - こんにゃくゼリー死亡事故を"母目線"でレポート | ライフ | マイコミジャーナル」に下記のような記述があった。

同センターの小坂氏は「元に戻る程度の食中毒やけがではなく、指の切断や死亡といった不可逆性の結果にまでなるようなら、そこにいる保護者や世話をしている人のせいとはいえない。何よりも原因となる製品を製造した側に大きな責任があると考えるべきだ」と指摘。
(冒頭の「同センター」は「国民生活センター」の事)

 意味が分からない。
 結果によって責任の所在が変わるなどという道理が通ると思っているのだろうか。
 この論理で言えば「車の死亡事故の責任は車メーカーにある」という事になる。だがしかし現実はそうなっているか?
 給食でパンを喉に詰まらせた児童が死亡したが、パンメーカーの責任は問われたのか?

 昨今「消費者の立場に立つ」という主張の多くが「親の責任を問われたくない」という立場に立っている気がしてならない。

 本来なら100人中5人しか「それはおかしい」と思わないような事は「消費者の立場に立つ」なら「おかしい」事ではない。しかし現状ではごく一部の声がある事を「少数の意見にも耳を傾けるべきだ」として取り上げ、大多数の意見はないがしろにされている。

 私個人の意見としては、食べ物を選び、与えるのは親の責任であり、虚偽記載や毒物混入ならいざ知らず、10年も前から死亡事故が起きている蒟蒻ゼリーやその類似品(と書かないと渦中のマンナンライフの蒟蒻畑が含まれないので)を買って家に置いておく、しかもあろうことか凍らせておく等という行為は、親の(あるいは与えた祖母の)資質を疑わずにはいられない。

 もちろん死亡事故は痛ましい事であるし、「自己責任だ」と批難するのはおかしな話だ。蒟蒻ゼリーがただのゼリーだったら、と思う気持ちもよく分かる。
 だがしかし、注意書きに書かれている内容をよく読まずに与えたという事実は消えない。悪意があった訳ではないだろうが、子供を守るという意味では注意不足だったと言わざるを得ないのだ。

 過度に清潔な環境で育った人は免疫力が低いという。昔の感覚からすれば過剰なまでに守ってやらなければ、様々な困難に直面するだろう。
 それと同じで、過剰に親を守れば、いつしか「守られる」事が常態となり「自ら身を守る」事が出来なくなってしまう。マンナンライフを批難している人々は、その認識があるのだろうか。
 大切なのは身の守り方を教える事であり、身を守ってやる事ではないはずだ。(もちろん個人の努力でいかんともしがたい部分については守ってやる必要もあるだろうが、今回の件は「買わなければ良かっただけ」だ)

 「親である」という事は、何か特別な事件が起こらなくともそれだけの責任を日々負うのである。
 責任を自覚出来なければきちんとした躾はできず、きちんとした躾ができなければ社会はどんどん不安定になっていく。守らなければならない対象が増え、それと反比例するように人を守る事の出来る人間は減っていくだろう。

 今はいい。今はいいが将来は? 自分が持っている価値観を、次の世代も同じように持てるのか?

 市民活動なり政治なりは、そういう大局的な視点を持って行って欲しいものである。

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